5月の半ば、初夏の風が心地よくなってきた頃、私は東京へ向かった。目的は、海外で生活していた時代に一緒にサーフィンをしていた友人たちとの再会だった。
今回の再会は、コロナ期間を挟んで実に7年ぶり。互いに年齢を重ね、人生のステージも少しずつ変わってきた中で、また同じ空間に集まれるというのは、なんとも不思議で、そしてありがたいことだった。
出発は朝7時発の飛行機。前日の夜は早めに床についたつもりだったが、やはり旅の前はどこかそわそわして眠りが浅くなる。朝はまだ空が明けきらぬ時間に起床し、身支度を整えて玄関を出ると、姉がすでに車を用意してくれていた。自身の予定もあっただろうに、そんなそぶりは一切見せず、当然のように空港まで送ってくれる姉の優しさに、私は心から感謝した。
空港へ向かう車内では、姉と他愛ない話をしながらも、心はどこか旅の先にあった。
羽田空港に到着後、私はまず、姉が東京で使っているマンションへ向かった。友人たちとの待ち合わせまでの時間を、そこで過ごす予定だった。
鍵を開けて中に入ると、数ヶ月使われていなかったベランダには、風に運ばれてきた埃や葉っぱが溜まっていた。最初はソファで一休みしようと思っていたのだが、気がつくと私は雑巾とホウキを手に取り、掃除を始めていた。
風にさらされて少しざらついた床を丁寧に磨き、手すりのほこりを拭い取る。身体を動かすことで、なんとなく気持ちも整い、私は改めて今日の再会に向けて気分を新たにした。
午後になり、友人が滞在しているホテルへ向かった。彼とは本当に久しぶりの再会だったが、顔を合わせた瞬間、不思議なほど自然に笑顔がこぼれた。
部屋に通されてから、夕食までの時間を使って、私たちは話し込んだ。まず話題にのぼったのは、やはり2020年から始まったコロナの数年間のことだった。彼は4代続く花火師で、数年前に正式に家業を継いだのだが、それがちょうど2020年、世界がパンデミックに揺れ動き始めた年だった。
全国でイベントが次々と中止になり、花火大会もすべて中止。彼にとっては、まさに前例のない荒波の中での船出だった。花火の在庫は売れず、開催予定だったイベントはすべて白紙。職人を抱えたまま、収入はほぼゼロという状況が続いたという。自分が継いだ途端に全てが止まったという現実に、心が折れそうになったと語っていた。
それでも彼は立ち止まらなかった。コロナ終息が見えはじめたタイミングで、協会の先輩たちとイベントを行ったり、SNSを使って花火の魅力を発信したりと、新しい試みを次々に形にしていった。誰よりも負けず嫌いで、どんな状況でも工夫を凝らすタイプだった彼が、その性格のままこの時代を乗り越えた姿に、私は胸が熱くなった。
「一番苦しい時期だったけど、あの数年で、自分の中の何かが変わった気がするよ」
そう語る彼の目は、以前よりもずっと強く、まっすぐ前を見据えていた。あの頃の無邪気さは少し影を潜めていたけれど、その代わりに得たものが、確かにそこにあった。
夕方、もう一人の仲間と合流するために、ホテルから隅田川沿いにある小料理屋へと向かった。その店は、花火職人の彼の先輩が営んでおり、隅田川の花火会場からも近い。昔から「花火は夏の風物詩」というイメージがあるけれど、その裏には、こうした職人たちの技と情熱があることを、改めて思い知らされた。
店に着くと、すでにもう一人の友人が待っていてくれた。こちらも久しぶりの再会だ。乾杯のビールを交わし、店主自慢の料理が次々と運ばれてくる。季節の素材を活かした一品一品に舌鼓を打ちつつ、話は自然と昔のサーフィンの話へ。
「あの波は良かった」「あのポイントは穴場だったな」——まるで昨日のことのように語り合う。笑い声が絶えず、誰かが話し始めるたびに、思い出がどんどん蘇ってくる。それぞれ家族を持ち、住む場所も仕事も全く違う人生を歩んできたはずなのに、不思議なことに、あの頃と変わらない距離感でいられた。
「結局、波の上で繋がった縁って、消えないんだよな」
ふと友人が呟いたその一言に、皆が静かに頷いた。そう、サーフィンは単なる趣味じゃなかった。人生の節々で、深く根を張る“何か”だったのだ。
東京の夜は、そんな仲間たちとの再会を祝福するように、静かに、そして優しく包んでくれていた。